手織りの自由さ

最近、改めて手織りの表現技法としての自由さ、寛容さを感じています。
商業的な手織りでなく、個人の楽しみとしての手織りは自由表現にとって最たるものですし、商業的な手織りですらこれからはそれが当てはまるのかも?と思っています。むしろ、明確な表現や、個人的な想いが伴わないと手織りという形式で商業的に成り立たせることは不可能かもしれない、と思ったりもしています。
手織りでご飯を食べたいと思っているなら、それこそ個人(自分)の想いを見つめて見つめて、それを表現していくしか道はないのかもしれません。
ご飯を食べるかどうかはさて置き(書きたいことが脱線するところでした)、手織りは本当に自由だな、と。
絵を描くことほどに自由かもしれませんよ。
だって、分業制で(産業として)続いてきた手織りにあって、それを個人の楽しみとしてやろうということで、タテ糸作りから織り上げまで自分でするって、すんごい自由度高いことだと思うのです。
手織りでよく言われるのが、タテ糸作り8割、織り2割みたいなことなんですけれど、そもそも自分が織りたくて織るのだから、その8割の中でも2割の中でも、自分の気持ちのままに変化ができるってことなんです。
分業制だと、まずはじめに織りの設計が必要ですし、その設計に沿って各ポジションの人がそれぞれのプロフェッショナルの仕事をしていきます。
だから、設計から逸れたらそれぞれのプロの能力が発揮できなくなるので、やっぱり設計って必要なのです。分業では。
でも、個人の、自分が楽しむ織りであれば、全部自分でする前提なので、設計が必要ないのですね。織りを行う上で工程に対する知識はある程度必要ですし、あったほうがより良いとも思いますが、設計まではしなくても、楽しく、心地よく織ることってできるんです。
もちろん、設計してから織るとしても、自分で全部したくてすると思えば、それもまた喜びと楽しみの一部になってくれます。
「手織り」と聞くと、時間がかかる、手間がかかる、と思われる方も多いと思います。それも一部本当です。
でも、織りとの向き合い方次第で、まったく違う世界が広がっていきます。
手間がかかるからこその楽しみがあり、豊かさや特別な時間を感じることができたりします。
僕自身、昨年までと少し違う工程、考え方で織りと向き合い始めました。
そうして冒頭の感覚がぐわわ〜っと湧いてきたのです。
「いやー、手織りってほんと自由ですね。」
って、内心ワクワクしています。
それは、メンバーさんの作品を見ていても感じることだったりして。
世にあるたくさんのものづくりの、手仕事のひとつとして、これからの世にもやぱり手織りはあったほうが楽しい世界になるよな〜、なんて思った1日でしたとさ。