手作りゴジラ

ゴジラー1.0の山崎貴監督が米アカデミー賞で視覚効果賞を受賞したとのこと。
その関連インタビューで興味深い監督の言葉がありました。
「AIの技術はすごいけどなんか気持ち悪い。根本的な感性が違うから、すごくいいんだけどなんか変。」
「ある日気付いたら重要な技術のひとつになって、僕らの仕事がなくなるかもしれないけれど、何かを判断できる人間で居続けたい。」
「手作りのものを重ねて、色んな議論をして最終的に出てきたものは非常に評判がいい。人間の思いは映像に映ると信じている。そのことは大事にしていきたい。」

朝日新聞の記事を要約、抜粋させてもらったのですが、僕もこの考え方に本当に納得していいます。
興味を持ったものに対して色んな情報を得ていくと、もっと好きになる時と、あれれ?なんか違うかもしれない、、、となることがあって、AI技術に対しても同じことが言えるんだろうな、という気持ち。
チャットGPTも人の代わりに働いてくれる配膳ロボットも、色んなことが進化のひとつだからいいことだと思うのですが、だからと言って、相談を聞いてくれる生身の、揺れ動く感情を宿した人間の友人がいなくていいのか、というとそんなのさみしい!って思っちゃうし、「お待たせしました〜!」って笑顔で料理を持ってきてくれるスタッフさんがいるご飯屋さんに僕は行きたい。いつも感じのいいスタッフさんがちょっといつもと違ったら、そんな日もあるよね、ってちょっと気にしたい。
そんなことを思ったりしているもので、監督の言葉はそうだよな〜!と思いながら読んでいました。
”判断できる人間でいる。”
それはつまり、自分の価値観を持つことだったり、人と関わり合って社会の価値観を知っていることであったり、自分の違和感に蓋をしないことだったりする。と思う。
もうすぐ3歳になる息子は自己主張がどんどん強くなってきて、理由が見えない”いやだいやだ”を繰り返すこともある。でも、その自己主張という主体性を無くさずにいてほしいと思う。だから、すったもんだして落ち着いた後、「いやなことをいやだって教えてくれてありがとう」と伝えるようにしている。
わがままな人になっちゃっても困るよなー!と思いつつ、でも思いやりと一緒に、自分の気持ちをおざなりにしない、自分を大切にできる人になってほしいと思っている。
ちょっと話がずれたけれど、世界に認められた人から”手作り”という言葉が出てきたことが嬉しくって書き残してみました。